痛快なる真実の教育論
良くも悪くも「小浜逸郎らしさ」が全面的に出た作品。
タイトルの持つ攻撃性はそのままに、軽妙な語り口で現代の歪んだ教育論への疑問を書いています。
「学校の勉強なんか出来なくても良い」
「ノーベル賞の小柴さんだって学校でビリだった」
「偏差値なんて意味が無い」
「子供の個性を伸ばすためには、詰め込み教育は良くない」
といった、良く語られがちな教育論。
著者は「学校での学力は社会的成功にある程度の相関がある」と主張し、
「ビリの小柴さんだってあの東大に入っている。偏差値40の大学からノーベル賞受賞者は出ない」
「子供は知識を貯めこんでいるからこそ個性を表現出来るし、人も思いやれる」
と語っていき、
多くの人がなんか違うよな・・・と思っていたおかしな主張を痛快に論破していきます。
私にとって、読後感は非常に爽快かつ納得の行くものでした。
しかし、全ての子供に同一かつ無限の才能があると信じ、
義務なき子供の人権だけを崇める方は読まない方が良いでしょうね。
着想はよいが取材が足らない
教育言説のウソを暴く破壊力はすばらしいのだが、惜しいことに取材が足らない。たとえば、教職科目の中身を知ることなどは、市販の書籍を読めばすぐにわかることなのに、「知らないが体験者から聞いた」で済ましている。一刀両断している「総合学習」についても、著者の印象論以上のものではない。「頭の悪い人」「頭の良い人」の事例は悪乗りしすぎである。著者の得意とする論客批評だ。 著者も認めている苅谷剛彦の本を読んだ方が、ずっとましな教育批判を読めると思う。
日常から思想を発信しようとする,鍛えられた評論
軽い文章で,分かりやすいテーマを分かりやすく語る本書は,冷徹な事実に基づく,きわめて鍛えられた評論である。お子様教批判や知識人批判はこれまでの著者の主張を繰り返したものだが、戦後の「学校化」の現象が,地域共同体の喪失による相対的な学校の比重の高まりによるものであるとの指摘は,今後大いに議論されてしかるべきであろう。冷徹な事実は救いが無いように見えて,結局は本質的な救いに人を導く。口当たりの悪い言説がもっと必要である。
道徳論的、「平等」教育主義へ懐疑を投げかけてる?
ジョディ・フォスターの映画「カル」の一場面を思い出しました。「どうして足が速い事は自慢できるのに、頭がいい事は自慢しちゃダメなの」 確か、こんなセリフがあったはず。 ゆとり教育の名の下、なんだか訳の分からない平等主義のような ものがはびこってますが、個人の目指すべき領域を曖昧なモノにして 今の若者(に限らず)が目的を見失なう一因をなしてるような印象を かねてから感じていたので、ちょうど良い読み物でした。 なんというか、各人がそれぞれに見合ったロールを見つけて、 適切に幸せを追求するってのは、いい事だと思うんだけど、なぜか 世間はそれを道徳論から忌避してるような気がします。これは教育に限った問題ではないのでしょうけど。この辺に関して良い握言の書 だったと思います。 他の方もご指摘のように、スキャンダラスとも言えそうな、目を引く タイトルと、著者の個人的な経歴は、ちょっと必要さを感じませんでした。 知識人の批判は、読み物的に楽しめました。
面白い、けれど…
面白い。だが総論的な部分や、「頭がいい」者として歩んできた著者自身の自伝的な記述や、知識人批判、教育問題それぞれがタイトルの「頭はよくならない」というテーマで一貫して分析考察されていると言うには若干バランスを欠く点がある。『なぜ人を殺してはいけないのか』『弱者とは誰か』などと同じくらいの深さは感じられない。だがあとがきにもあるように、小浜氏はこういう軽妙な内容の本をたまに書く人で、ある程度それを分かって読んだ方がいいかも知れない。小浜逸郎ファンなら、いい意味で「小浜先生らしいな」と思う部分がたくさんある本ではあると思う。
洋泉社
「責任」はだれにあるのか (PHP新書) 言葉はなぜ通じないのか (PHP新書―人間学アカデミー) 人生のちょっとした難問 (新書y) なぜ私はここに「いる」のか―結婚・家族・国家の意味 (PHP新書) 人はなぜ死ななければならないのか (新書y)
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